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檸檬 - 杉田智和

檸檬-杉田智和.mp3
[00:08.77]檸檬 [00:10.15]梶井 基次郎 [00:14.01]い...
[00:08.77]檸檬
[00:10.15]梶井 基次郎
[00:14.01]いったい私はあの檸檬が好きだ
[00:18.50]レモンエロウの絵具をチューブから絞り出して固めたような
[00:23.27]あの単純な色も
[00:25.62]それから
[00:27.01]あのたけの詰まった坊制形の恰好も
[00:32.51]結局私はそれを一つだけ買うことにした
[00:37.91]それからの私はどこへどう歩いたのだろう
[00:44.71]私は長い間街を歩いていた
[00:49.85]始終
[00:51.28]私の心を圧えつけていた不吉な塊な
[00:55.47]それを握った瞬間から
[00:58.13]いくらか弛んで来たとみえて
[01:01.22]私は街の上で非常に幸福であった
[01:08.10]あんなにしつこかった憂鬱が
[01:10.89]そんなものの一顆いっかで紛らされる
[01:14.72]あるいは不審なことが
[01:16.82]逆説的なほんとうであった
[01:21.21]それにしても
[01:22.86]心というやつは
[01:25.09]なんという不可思議なやつだろう
[01:29.42]その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった
[01:35.35]その頃私は
[01:37.17]肺尖を悪くしていて
[01:39.58]いつも身体に熱が出た。
[01:42.60]事実友達の誰彼だに
[01:45.25]私の熱を見せびらかすために
[01:48.60]手の握り会いなどをしてみるのだが
[01:52.08]私の掌が誰のよりも熱かった
[01:56.86]その熱いせいだったのだろう
[02:00.11]握っている掌から
[02:02.31]身内に浸み透ってゆくような
[02:04.90]その冷たさは快いものだった
[02:10.33]私は何度も何度も
[02:13.33]その果実を鼻に持っていっては嗅かいでみた。
[02:19.01]それの産地だというカリフォルニヤが
[02:21.88]想像に上って来る
[02:25.94]漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった
[02:31.06]「鼻を撲うつ」という言葉がきれぎれに浮かんで来る
[02:36.33]そしてふかぶかと胸一杯に
[02:39.78]匂やかな空気を吸い込めば
[02:43.06]ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった
[02:47.20]私の身体や顔には
[02:49.99]温が血のほとぼりが昇って来て
[02:53.40]なんだか身内に元気が目覚めて来たのだった
[02:59.83]実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が
[03:06.35]ずっと昔から
[03:08.23]こればかり探していたのだと言いたくなったほど
[03:12.23]私にしっくりしたなんて
[03:15.31]私は不思議に思える
[03:18.87]それがあの頃のことなんだから
[03:24.10]私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで
[03:29.40]一種誇りかな気持さえ感じながら
[03:33.72]美的装束をして
[03:35.35]街をかっぽした詩人のことなど模樣べては
[03:38.88]歩いていた
[03:42.12]酔われた手拭の上へ盧せてみたり
[03:45.16]マントの上あてがってみたりして
[03:48.06]色の反映を量はかったり
[03:50.64]またこんなことを思ったり
[03:55.49]つまりはこの重さなんだな
[03:59.78]その重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので
[04:04.64]疑いもなく
[04:06.50]この重さはすべての善いもの
[04:09.70]すべての美しいものを
[04:11.93]重量に換算して来た重さであるとか
[04:15.94]思いあがった諧謔心から
[04:18.45]そんな馬鹿げたことを考えてみたり
[04:23.21]なにがさて私は幸福だったのだ
[04:29.66]
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