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山月記 - 杉田智和

山月記-杉田智和.mp3
[00:07.47]山月記 [00:09.86]中島敦 [00:11.68] [00:1...
[00:07.47]山月記
[00:09.86]中島敦
[00:11.68]
[00:12.77]時に、残月、光冷(ひや)やかに、白露は地に滋(しげ)く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。
[00:27.49]人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖(はっこう)を嘆じた。李徴の声は再び続ける。
[00:42.96]  
[00:44.44]何故(なぜ)こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依(よ)れば、思い当ることが全然ないでもない。
[01:00.17]人間であった時、己(おれ)は努めて人との交(まじわり)を避けた。
[01:08.51]人々は己を倨傲(きょごう)だ、尊大だといった。
[01:16.36]実は、それが殆(ほとん)ど羞恥心(しゅうちしん)に近いものであることを、人々は知らなかった。
[01:26.16]勿論(もちろん)、曾ての郷党(きょうとう)の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云(い)わない。
[01:36.74]しかし、それは臆病(おくびょう)な自尊心とでもいうべきものであった。
[01:43.85]己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨(せっさたくま)に努めたりすることをしなかった。
[02:00.00]かといって、又、己は俗物の間に伍(ご)することも潔(いさぎよ)しとしなかった。
[02:09.95]共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。
[02:18.70]己(おのれ)の珠(たま)に非(あら)ざることを惧(おそ)れるが故(ゆえ)に、敢(あえ)て刻苦して磨(みが)こうともせず、
[02:28.42]又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦(かわら)に伍することも出来なかった。
[02:41.76]己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶(ふんもん)と慙恚(ざんい)とによって益々己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
[02:58.81]人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。
[03:10.88]己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。
[03:18.38]これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。
[03:37.01]今思えば、全く、己は、己の有(も)っていた僅(わず)かばかりの才能を空費して了った訳だ。
[03:47.49]人生は何事をも為(な)さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄(ろう)しながら、
[04:01.00]事実は、才能の不足を暴露(ばくろ)するかも知れないとの卑怯(ひきょう)な危惧(きぐ)と、刻苦を厭(いと)う怠惰とが己の凡(すべ)てだったのだ。
[04:13.53]己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。
[04:26.67]虎と成り果てた今、己は漸(ようや)くそれに気が付いた。
[04:34.74]それを思うと、己は今も胸を灼(や)かれるような悔を感じる。
[04:42.28]己には最早人間としての生活は出来ない。
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